無力感との闘い
残り長くて60年
最近、親が年を取っていることを改めて感じるようになってきた。毎日一生懸命働いていて尊敬する人たちである。自分の中で存在感がとても大きい人たち。しかし、そんな尊敬する人たちは社会に対してどれだけの存在感を放てているだろうか。おそらくそんなことはない。社会の中の一個人でしかない。
今までの学校教育では、「人それぞれの生き方があると思います。人生はそれを探す旅なのです。」といったようなことを言われた事があると思う。ほかにも「ナンバーワンじゃなくてオンリーワン」といった言葉もある。
なるほど、個々が個々それぞれの特徴を持っていて代替不可能であると言いたいのか。
現実は全くそうなってはいない。資本主義であろうが共産主義であろうが、ほとんどの人は皆須らく社会の歯車として人生を終える。
この人生を、何者かになった人生と呼べるのか。
別にこんなこと考えなければのうのうと生きていける(少なくとも自分は)けれども、何か強迫観念のようなものを感じてしまっている。
残り60年、果たして何者になるのか、あるいは何者にもなれないのか。
とは言いつつも……
社会に名を残す人は一握りに過ぎない。今までの人生を顧みるに自分がそういった人間になれるとはそう思えない。
では何のために生きているのか。子孫を残すためだろうか。
しかし、死んだ後のことを考えてみると、もはや自分には関係のないことである。もしくは関係できないことといってもいいのかもしれない。
輪廻転生だのそういったものは信じていないので、死んだあとは何も残らない、死んだことすらも残らないと思っている。
なにをしても、残しても、死後評価は(良い評価だろうが悪い評価だろうが)評価される対象からしたら意味はないのである。
それでも何かを成し遂げようとするのはなぜなのか。おそらく明確な解は存在しない。
自分の無力さと向き合い続けることが人生なのかもしれない。
自分は就活を目前にしてまた足踏みをしている。
妥協と納得で手にした勇気で一歩を踏み出し、残りの人生を決めなくてはならないところに立たされている。