太一のブログ

基本日記を書いていきます。

普通の「ほかの人」たち、拗らせてる自分。

 最近、様々な属性の人と過ごす機会があった。その場その場で、見える光景は異なっていて面白い。しかし、そのどこにも自分の居場所がないような気がしてたまらないのだ。

 これを自意識過剰と一言でかたずけてしまうことは容易い。だが、そう感じてしまうのだ。仕方がないのだ。

 場所ごとに適している、求められている自分を着飾って、雰囲気に合わせようとするが、その間ずっとこれじゃない感がすごいのだ。

 ほかの人はこういった感覚を抱かないのか?そればかりが疑問だ。無論、「そんなことあって当然、上手くやれないのが原因じゃないの」という考えもあるだろう。というか言われたことある。しかし、上手くやる術など知っていたらそうしているし、そういう当人は無意識的にうまくやっているのだからこちらのことなど理解できるはずもない。

 「自意識過剰。きついぜ」。これもよく言われるランキング上位に君臨する。過剰なものはどうしようもないのだ。はみ出し者になる恐怖心を補うには常に内省している状態にしておかないと気が気でならない。

 たぶん、こんなことばっか考えながら人付き合いしているからその場の雰囲気に溶け込んで楽しむに至れないのだろう。俯瞰的に自分を観察し、場に適しているかを常に校閲し、問題がないことを確認できたときにようやく楽しめるのではないかと思ってしまう。

 ただ、こんなこと周りの人間に話したところで理解してもらえるはずもないし、理解してもらえるとも思えない。今までもそうだった。一種の諦観に近い。世の中にはこんなことを理解してくれる人もいるのかもしれないが、そんな人今まで出会ったことがないのでいないに等しい。

 だからこそ、ほかの人とこういうことについて語り合ってみたい。最近、自分にとって結構切実な思いだということに気づいた。

 自分の欠陥に気づかず(あるいはわかっていても無視できる)、振舞えたら楽しいのかな。

 普通の人たちが何を考え、何を想い日々を過ごしているのかを知りたい。

 

まあ、そもそも話す人なんていないんだけども。

 

閑話休題

 自分の強欲な部分が、人が経験してきたことを自分もしてみたいという衝動に常に駆られている。根底にこの考えがあることが、自分の苦手な環境に足を運ばせているのだろう。現場に足を運んだ時には、自分可愛さに強欲な部分が鳴りを潜めるんだけども。

 自分の中で興味関心の優先順位がその部分にあるから、自分のための投資なり努力にリソースを割り振れていない。ほかの人たちに自慢できるから努力とかしているわけではないんだろうけど、結果を手に入れたときにどんな気持ちになるんだろう。成功体験なぞしたことがないから頑張る人の気持ちはわからない。

 インセンティブ(動機)をもとにビジネスを構築しているとインターンで聞く機会が多かったけど、そんな単純に人が動くとも思えず話が薄っぺらく聞こえていた。人をなめているのかと思ってしまう。それは塾講師をやっていても感じている。生徒をほめることでモチベーションを上げることに直結するのだろうか。当時の自分の気持ちがどうだったかは時間が経ちすぎて覚えていない。ただ、やらされたほめは相手に対して失礼であると思うから、安易に生徒をほめないようにしてしまう。

 そんなこと考えながら授業しているから、生徒からの満足度は他の講師に比べて勝ったことはないし、きっとこれからもそうなのだろう。

 ほかの先生はどう考えて授業しているのだろう。たかがバイトとして言われたことをやるだけなのか、基本に従いながらもプラスαでもっとうまくやっているのだろうか。

 

今回はツイッターの愚痴を長々と語るだけの回でした。話も一貫せず、結局何が言いたいのかわからん文章でした。ここまで読んでくれた人はきっと「なんだこいつ」と思ったことだろうが、もしここまで読んでくれたならありがとうございます。拗らせた人間の考えていることでした。

 

普通の「ほかの人」たちにあこがれる人より。