太一のブログ

基本日記を書いていきます。

視界に映っていたもの

 ふと、気づいたことがある。それは自分の顔をまじまじと見たことがないということだ。今日ひげ剃ってる時に気づいた。高校生の頃までは全くと言っていいほど鏡に縁がなかった。坊主なもんで自分の身なりに無頓着だった。顔を洗う時だって目をつぶってるもんだから意識したことはなかったし、大学に入って髪をセットするときも髪の毛に意識がいって顔全体を見たためしがない(それはそれでセットできているといえるのか)。

 顔を見るときは、顔のパーツごとでしか認識せずに全体としてぼんやりと見ることはなかった。ぼんやりと見てみると、この部分親父に似ているなとか、弟とは全然違うなとかいろいろな感想が浮き上がってきた。今になってそういった部分で家族とのつながりを再認識してみたり。顔立ちの良し悪しはさておいて、様々な発見があった。

 母ちゃんにはよく「お前の目は節穴か」と言われている。確かになと思った。何かをみているようで何も見ていなかったり、一点ばかりに意識が集中してほかのことが見えていなかったり。その中で何か大事なものを見落としてきたのだろう。

 人間関係だってきっとそうだ。当たり障りのないように振舞っているつもりで何かしらやらかしていたり、必死になって人とのつながりを手放さないようにしていたら、別のつながりを失っていたり。人付き合いがへたくそな原因の一端がある気がした。

 前回の記事に自分を俯瞰的に捉えているみたいな記述をしたが、それもきっと勘違いで、目線は高いところにあるのかもしれないがどこか目についた一点ばかりをみているだけだったりするのだろう。

 意識しないと全体をぼーっと捉えることは難しい。人の考え方もきっとそうで、自分に心地いい意見や考えばかりを見て、知った気になって、でも実のところ何も知ってはいないのだ。自分の立ち位置をはっきりさせようと必死になっていると気づけないのだ。

 自分が求めているモノを手に入れるためにやっていたことが、全て間違いとは言わないまでも遠回りになっていたことをようやく知れたのかもしれない。

 「視る」という行為は実に難しい。視点を決めて、視界に入れるものを選定しなければならない。「人間観察得意かもしんないー」とか言ってるやつはこれ意識して人を見てみろ。きっともっと面白くなるんじゃないの?知らんけど。

 ということで今回はここまで。

 村上春樹の『鏡』の「僕」のことを思い出しながら。

 

 

 

普通の「ほかの人」たち、拗らせてる自分。

 最近、様々な属性の人と過ごす機会があった。その場その場で、見える光景は異なっていて面白い。しかし、そのどこにも自分の居場所がないような気がしてたまらないのだ。

 これを自意識過剰と一言でかたずけてしまうことは容易い。だが、そう感じてしまうのだ。仕方がないのだ。

 場所ごとに適している、求められている自分を着飾って、雰囲気に合わせようとするが、その間ずっとこれじゃない感がすごいのだ。

 ほかの人はこういった感覚を抱かないのか?そればかりが疑問だ。無論、「そんなことあって当然、上手くやれないのが原因じゃないの」という考えもあるだろう。というか言われたことある。しかし、上手くやる術など知っていたらそうしているし、そういう当人は無意識的にうまくやっているのだからこちらのことなど理解できるはずもない。

 「自意識過剰。きついぜ」。これもよく言われるランキング上位に君臨する。過剰なものはどうしようもないのだ。はみ出し者になる恐怖心を補うには常に内省している状態にしておかないと気が気でならない。

 たぶん、こんなことばっか考えながら人付き合いしているからその場の雰囲気に溶け込んで楽しむに至れないのだろう。俯瞰的に自分を観察し、場に適しているかを常に校閲し、問題がないことを確認できたときにようやく楽しめるのではないかと思ってしまう。

 ただ、こんなこと周りの人間に話したところで理解してもらえるはずもないし、理解してもらえるとも思えない。今までもそうだった。一種の諦観に近い。世の中にはこんなことを理解してくれる人もいるのかもしれないが、そんな人今まで出会ったことがないのでいないに等しい。

 だからこそ、ほかの人とこういうことについて語り合ってみたい。最近、自分にとって結構切実な思いだということに気づいた。

 自分の欠陥に気づかず(あるいはわかっていても無視できる)、振舞えたら楽しいのかな。

 普通の人たちが何を考え、何を想い日々を過ごしているのかを知りたい。

 

まあ、そもそも話す人なんていないんだけども。

 

閑話休題

 自分の強欲な部分が、人が経験してきたことを自分もしてみたいという衝動に常に駆られている。根底にこの考えがあることが、自分の苦手な環境に足を運ばせているのだろう。現場に足を運んだ時には、自分可愛さに強欲な部分が鳴りを潜めるんだけども。

 自分の中で興味関心の優先順位がその部分にあるから、自分のための投資なり努力にリソースを割り振れていない。ほかの人たちに自慢できるから努力とかしているわけではないんだろうけど、結果を手に入れたときにどんな気持ちになるんだろう。成功体験なぞしたことがないから頑張る人の気持ちはわからない。

 インセンティブ(動機)をもとにビジネスを構築しているとインターンで聞く機会が多かったけど、そんな単純に人が動くとも思えず話が薄っぺらく聞こえていた。人をなめているのかと思ってしまう。それは塾講師をやっていても感じている。生徒をほめることでモチベーションを上げることに直結するのだろうか。当時の自分の気持ちがどうだったかは時間が経ちすぎて覚えていない。ただ、やらされたほめは相手に対して失礼であると思うから、安易に生徒をほめないようにしてしまう。

 そんなこと考えながら授業しているから、生徒からの満足度は他の講師に比べて勝ったことはないし、きっとこれからもそうなのだろう。

 ほかの先生はどう考えて授業しているのだろう。たかがバイトとして言われたことをやるだけなのか、基本に従いながらもプラスαでもっとうまくやっているのだろうか。

 

今回はツイッターの愚痴を長々と語るだけの回でした。話も一貫せず、結局何が言いたいのかわからん文章でした。ここまで読んでくれた人はきっと「なんだこいつ」と思ったことだろうが、もしここまで読んでくれたならありがとうございます。拗らせた人間の考えていることでした。

 

普通の「ほかの人」たちにあこがれる人より。

 

 

なんだかんだ一年たった

去年の今頃は20年の節目に立ったことで今までを振り返っていた。

今はこれからのことを考えている。

 

21歳からの人生は何か今までの時間とは考え方が変わってきた。

これまでは一年とか二年上の人がいわゆる「先輩」だった。それが来年からは自分より年上の人がすべて「先輩」になる。

 

「人生の先輩」

 

そんな言葉を漠然と考えていた。

でも、就活の中でOB訪問をすることで実感をもって迫ってきた。

社会から見たら自分なんかただのぺーぺーにしか過ぎない。

まるで赤子同然。

 

 

そんな赤子を雇いたいと思ってくれる企業はあるのだろうか。

コロナウイルスの影響で全く企業の人と会話することがない。生の情報を得ることができないことは怖い。

企業もどんな赤子を選ぶのか、見当をつけるのが難しいだろう。

これで双方納得のいく結果を得られるのだろうか。ネグレクトを起こしかねない。

 

閑話休題

 

この一年で考え方が本当に変わったと思う。

周囲の人、今までの自分。そんなものと比べ、競おうとばかりしてきた。

劣りたくない、見栄を張りたい、少しでも自分を認めてほしい。そんな思いが何かするたびに出てきた。

でも、選ばれないことが当たり前の出来事に直面することが多くなった。

 

その時になってようやく気づいた。

「自分にはいったい何があるのか」

 

人が優れている部分ばかりに目が行き、その土俵で勝負しようと躍起になっていた。

何でもできるわけもないことに気づかないでいた。目をそらしていた。

そうしないと自分に価値がないのではないかという思いに駆られながら。

 

求められているのは「自分」という人間で、ほかの人より優れていることではない。

じゃあ「自分」には何があるのか。それまで一切考えてこなかったことで、重くのしかかっていた。

人の真似ばかりで、自分のことを考えてもそのことばかりが出てきた。

野球をしていたのも身近な人間がやろうとしていたことに流されていただけだった。

自分本位で何か始めたことはないか。振り返る。

 

すると、このブログがでてきた。

このブログは自分の思い純度100%でできている。この一年の支えになっていたと感じている。自分しか感じられない感情であふれている。誰にもない、自分のだけのもの。

 

これまで、人と比べてしまっていたのは、「自分の弱さ・幼さ」が原因だったのだと思う。

そんな赤子でも一年後には「先輩」たちの仲間入りをする。(予定)

振り返りながら、少しでも一歩前へ、自分の弱さと向き合って成長していこう。

 

打倒ネガティブ!そうアグレッシ部! ――KREVA

 

そんなことを思いながら。また一年。

 

 

 

 

就活の愚痴

 

「予定人数を大きく上回る参加希望が寄せられたため、エントリーシートをもとに選考をさせていただきました。その結果、今回はご希望に添うことができませんでした。

大変申し訳ありません。」

 

いったい何度この文を見ただろう。

 

自分のESを出すときは、何とも言えないワクワク感を抱き。

「通ったらいいなー」とか言って落ちた時の保険をかけるために同期と話し。

内心では「これだけやったんだ。絶対通過する」とかいう謎の自信を持ち。

上の文を見て、「やっぱだめかー!」って言ってみて。

でも内心、死ぬほど悔しくて。どこがダメだったのか、何が足りないのか考える。

 

すると、話し相手の同期は嬉しそうに、「ES通ってたー!次は面接だぁ!」と言う。

 

「おめでとう!」心からそう思うし、この後も頑張ってほしいと思う。

だけど何が違う?どうやって通過した?何がそんなに刺さった?

おめでとうを口にしたその直後にはそう考えることしかできなくなっている。ほかの人と比較して、羨んでばかりだ。

 

 

 

「ESというのは自分がどういう人間なのかを見てもらうものだ。だからこれまでの自分の人生を詰め込んで書け」

偉い人がそう教えてくれた。言われた要点を抑えて、自分らしさが最大限出るよう、書いたはずだった。

でも理解してもらえないから選考で落とされる。

 

そのたびに先輩は、

「自分自身を否定されたように感じるかもしれないけど、そうじゃないから気に病む必要ないんだよ」という。

 

じゃあどこがダメだった?キレイな文を書きすぎ?自分史上一番うまくいったことを書いているんだからそうなるに決まっている。それで落とされるってことは、企業に「お前じゃ役不足」といわれているようなもんじゃないか。否定されてるんだろう?

 

 

「全員は選べない。だから皆さんにESを提出してもらっている。でも我々はダメだから落としているんじゃない。よさそう・合いそうと思った人を選ぶ」そう採用担当者が言った。

 

結局ESで魅力を感じられるような体験・経験してる人が選ばれるんだろう?俺の人生には魅力がないと突き付けられているようなものじゃないか。だったら最初からそう言ってくれよ。期待を持たせないでくれよ。「お前じゃ無理」。そう言ってくれよ。

萩生田文部大臣の「身の丈に合った」発言もあながち間違いじゃないんじゃないのか。

 

 

「結局、その会社との縁があったかないかでしょ?」

 

縁がなかったらノーチャンスですか、そうですか。なら最初から教えてくれ。結果を突きつけられるまでの時間が一番つらいし、もったいない。でも現実そうじゃないんだから、そんな簡単な言葉で片づけないでほしい。虚しくなる。

 

そんな事実を突きつけられるたび、自分がすり減っていくように思う。苦痛でしかない。

 

 

 

「褒められたい 認められたい まだまだもっと惚れさせたい

なら褒めなきゃ 認めなきゃ 惚れさせなきゃ そうまず俺から」

KREVAの「Revolution」という曲の一節。

 

ホントその通りだと思う。自分のことばかり押し付けていやしないか、振り返る。

今の就職活動は売り手市場だといわれている。その言葉に甘えていたんじゃないのか。

ここから先は、衰退していく業界だからといって人気薄なわけではないだろう。

 

就職活動の本質はどんな時だって変わらないんだろう。結局は人と人との相性を確かめる場なんだから。その人と人のやり取りに、どちらかが偉くてどちらかが下手に出るなんてことはないだろう。

 

何が良くて、何がダメで。どうすれば伝わって、どうなると伝わらないのか。

折れるたびにこうして吐き出そう。

そうやってこれから数か月間、就活が終わるまで、何度も心を折られても、考えて、向き合って、乗り超えよう。

日々を大切にして。

 

 

 

「誰にだって 平等な一日 この手で自ら広げる陣地

後はいかにそれをどう楽しめるか 後はいかにそれをどう楽しめるか」

 

 

 

自分本位か他人本位か

SNSで自分の範囲が拡大している?

SNS自体が使われ始めたのは最近のことでないが、一つ気になる事象が見て取れるようになった気がする。それは、あるトピックに対してのリアクションがまるで我が事のようなものになっているというものだ。

 最近だと川崎の殺傷事件の、藤田孝典氏の見解に対してのリアクションが挙げられる。

 読み方によってはいろいろと考えられるところではあるが、この記事が触れているのは事件そのものではなく、事件を取り巻くSNS上での発言や考え方に対しての提言であると、自分は感じた。

 しかし、SNSでこの記事は炎上し、「被害者の方がこの記事を見たらどう思うのか」や「もっと考えて発言しろ」といった批判(的を射た批判かどうかは別として)が目立っていた。

 確かに、被害者の方の心情を思いやるのは大切なことだと思うし、事件に触れる記事を書くならば配慮する必要はあると思う。

 だが、この記事を読んだ人(被害者の方ではない人)が、なぜあたかも正義の人のように振舞い、被害者の心情を読み取ったかのように発言しているのか。被害者の方と会話をしたわけでもないのに。

 そういった言動自体があっても悪くはないと思うが、今回に限っては的外れな指摘ではないか。

 それこそ、先ほどの発言自体を筆者は批判しているのではないか。

こう思うわけである。

 

感情論の虚しさ

今回のように論理だてて物事を考えている人に対して感情論をぶつけて議論が成り立たなくなってしまうのは、もったいない。感情論は思考を停止させていることと何ら変わりはない。

感情を振りまくことは周囲に大きな影響を与える。テレビのワイドショーなどでセンセーショナルな映像がよく用いられるのはそういった理由だ。しかし、これによって伝わるのは、「誰が」や「どんな気持ち」といった情報だけで、「なぜ」という原因を考えさせるきっかけを与えてくれるわけではない。与えようとしているのかもしれないけれど、限りなく目を向けづらくさせているのにはかわりがない。

考えることは、難しいし疲れる。しかし、思考をやめてしまうならば、それは感情をコントロールできていない子供となんら違わないのだ。

情報を入手する際には「考えること」を意識しておきたい。

 

 

 

 

 

無力感との闘い

残り長くて60年

最近、親が年を取っていることを改めて感じるようになってきた。毎日一生懸命働いていて尊敬する人たちである。自分の中で存在感がとても大きい人たち。しかし、そんな尊敬する人たちは社会に対してどれだけの存在感を放てているだろうか。おそらくそんなことはない。社会の中の一個人でしかない。

 

今までの学校教育では、「人それぞれの生き方があると思います。人生はそれを探す旅なのです。」といったようなことを言われた事があると思う。ほかにも「ナンバーワンじゃなくてオンリーワン」といった言葉もある。

なるほど、個々が個々それぞれの特徴を持っていて代替不可能であると言いたいのか。

現実は全くそうなってはいない。資本主義であろうが共産主義であろうが、ほとんどの人は皆須らく社会の歯車として人生を終える。

この人生を、何者かになった人生と呼べるのか。

 

別にこんなこと考えなければのうのうと生きていける(少なくとも自分は)けれども、何か強迫観念のようなものを感じてしまっている。

 

残り60年、果たして何者になるのか、あるいは何者にもなれないのか。

 

とは言いつつも……

社会に名を残す人は一握りに過ぎない。今までの人生を顧みるに自分がそういった人間になれるとはそう思えない。

では何のために生きているのか。子孫を残すためだろうか。

しかし、死んだ後のことを考えてみると、もはや自分には関係のないことである。もしくは関係できないことといってもいいのかもしれない。

輪廻転生だのそういったものは信じていないので、死んだあとは何も残らない、死んだことすらも残らないと思っている。

なにをしても、残しても、死後評価は(良い評価だろうが悪い評価だろうが)評価される対象からしたら意味はないのである。

 

それでも何かを成し遂げようとするのはなぜなのか。おそらく明確な解は存在しない。

自分の無力さと向き合い続けることが人生なのかもしれない。

 

自分は就活を目前にしてまた足踏みをしている。

 

妥協と納得で手にした勇気で一歩を踏み出し、残りの人生を決めなくてはならないところに立たされている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

重い一歩目

一歩目の不安

人間誰だって何かしら初めてすることというものは存在している。所謂「はじめての○○」というやつだ。初めてやることにも、簡単にできることや自然にできるもの、はたまた、やろうと思ってもできないことややりたくないものなど様々なタイプに分けられると思う。

その中でもやりたくないものに関しては、年を重ねるほどに増えていくものだと思う(中にはこういったものは全くないという人もいるかもしれないが)。

なぜ、年を取ると物事に取り組むことが億劫になってしまうのか。その理由の一つに変化を拒むというものが挙げられるはずだ。

自分を取り巻く環境が変化すると、その変化を受け入れる、または反発するなどの何かしらのアクションを起こす。アクションを起こすためにはエネルギーが必要となる。幼いころであれば必要に迫られて何も考えず、無自覚に行動できていた。しかし、年を取るということは経験を積むということであり、いろいろな方法を考えられるようになるということとなる。

つまり、現在の状態と、新しい環境へ変化することによるメリットとそれに伴う消費エネルギーとを比べるための頭が備わるということである。

この時に、人にもよるが、未知の変化をする際にリスクヘッジをすると思うのだが、この作業中に無意識のうちにメリットを上書きするほどの言い訳がなされてしまうのである。

 無意識下の言い訳をしてしまったが最後、新たな一歩目を踏み出す可能性をつぶしてしまうのである。

 

では、どうしたらよいのであろうか。

あいにくと、上記の内容は自分のことであるので解決策というものは持ち合わせていないのである。

それゆえに、どうやって思い切った行動を起こせるようになるのかを考えてもわからないという堂々巡りを起こしてしまっている。

 

ブレイクスルーを探す日々である。